ブラジルのカーニバル

「今日は、ブラジルのカーニバルを鑑賞する予定ではなかったのですか。まあ、ロンドンもいいでしょう。そういえば、慶介君は今頃、フロリダで何をしてるんでしょうか。」
インテリメガネがそう続けた。
「マイアミビーチでハーレー好きな連中のフェスティバルに参加するって言ってたぜ。あいつバイク好きだから。たいていハーレーに乗ってる奴らは後ろに金髪のギャルを乗せてるらしい。ビキニのな。想像してみろ。どっかのストリップ小屋とかちんけなバーでさ美人をナンパするんだ。ちょっと俺のハーレーに乗ってビーチにでも行かないかってね。」
鷲鼻が運転しながらブルーパールの話をした。
「まあ、この国じゃありえないな。ちょっとビーチにってわけにはいかない。沖縄ならできそうだけど。」
と七瀬が言った。私は本当の行き先が気になったが、彼らの世界を壊したくなかったので訊くのを躊躇った。七瀬が聞いていたラジオを止め、CDを聴こうとスイッチを押すと、爆音でレゲエが流れ始めた。ロンドンでもブラジルでもなくきっと南国ジャマイカに向かっているのだと私は感じた。
「ちょっと、耳おかしくなりそう。ボリュームダウン。」
私が車内でそう叫ぶと七瀬は少しだけ音を下げた。
「なあ、聞いてくれ、マリア。俺、やっぱり美大を受ける。」
「本当?親が許してくれたんだ。よかったね。」
「ああ。しばらく口を利いてくれなかったけど。画家目指して、なんとか食っていけるようになるまでひたすらやっていこうって思ってる。」
七瀬がそう言うと、インテリメガネが拍手した。
「マリアさんは大学で英文学を学ぶそうですね。本を読むのが好きなんですね。」
「うん。暇なときは読むようにしてる。」
「僕は昔、歴史小説を二年かけて読んだことがあります。

ボンジョールノ、プリンセスマリア

昼すぎ、家の前でエンジンを何度もふかす音が聞こえ、ドアを開けると鮮やかなブルーのセダンが止まり、七瀬が立っていた。二重人格、情緒不安定、躁うつ病、私の頭の中で彼が犯されている様々な精神的病の名前が挙がった。そしてロバート・ルイス・スティーヴソンの『ジキル博士とハイド氏』を思い出した。彼はまさか自分で調合した薬によって操られているのではないだろうか。四、五日前、赤ん坊のように泣いていた男とはとても思えない。あの日、私を脅かして胸倉まで掴んで引っ張り上げたことへの謝罪もない。けれど、そんなものはないほうがいいに決まっている。なぜなら、今まで誰にも謝罪したことがない彼が誰かに頭を下げたときこそ、この世の終わりだと私や彼の友人は感じるから。
鷲鼻が免許を取ったからみんなでドライブに行こうと誘われた。ブルーパールはフロリダに旅行中らしく、インテリメガネもいれて四人で出かけることなった。
「マリアさん。ご就職おめでとうございます。」
いつものようにインテリメガネが挨拶した。
「うん、そっちもおめでとう。」
私はもうこの不思議な世界に慣れ親しんでいたのでそう笑顔で返した。そして七瀬に関しては以前よりエスカレートしているようにもみえる。
「なあ、プリンセスマリア。これからロンドンに行って女王とちょっとお茶するからな。楽しみにしてろ。」
と七瀬が助手席から後ろに座る私に言った。

 

僕がいないじゃないか。

そう言って友紀は家の中に入ってしまった。三枚目には制服を着た女の子が描かれていたからだ。母の絵はどれもすばらしいものだったけれど、どうして弟の絵だけないのか不思議に思い、絵をよく見ていると三枚目の絵の裏に、私宛にメッセージが書かれていることに気づいた。

「夏希へ。成長していくあなたの記念すべき瞬間を、見逃してしまうことが悔しくてなりません。高校の入学式で緊張するあなたの肩を解すこともできないし、成人式で晴れ着を赤にしようかピンクにしようか一緒に悩むこともできません。あなたがいったいどんな素敵な人を好きになるのかも知れないまま逝ってしまうことは残念でなりません。だからここに私が想像したあなたの未来を三枚の絵にして贈ります。そしてこの絵よりもっと笑顔が溢れていることを願います。友ちゃんはまだ小さいから私がいないことで泣いたりしないように守ってあげてね。父さんと仲良くね。」

母はいったいどんな思いでこの手紙を私に残してくれたのだろうかと想像すると手紙を持つ手が震えた。死んでしまったとはいえ、こんなに大事に思われていたことを知らされて目が熱くなる。母の大きくてあたたかい手のひらを思い出すと、自然に優しい気持ちが私の心を包み込んだ。そして七瀬のことを思った。きっと彼にはこういう気持ちがわからないのかもしれない。でもこれからは楽しいだとか嬉しいと感じながら生きてほしいし、いつか絶対にそう言わせてやりたい。私はそう唱えるようにしてもう一度三枚の絵を見つめた。